今月の本 1

接続・接点 が全てに通ず?

読む人の心にスルッと落ちるような書き物にしたい!
そう思ってはいるもののナカナカ実現は遠いものです。

それでも、書き方の基本についてはわかっていることもあるつもりです。
一つの文を長く続けない。特に「が」を多用しながら長い文を書いてしまっているときは
句点で区切る、というのは気を付けるようにしています。
しかし文と文との接続は考えていても、読み返した時に「なんかうまくないな」という文になってしまっているのです。

どうすればいいんだろうな、と答えを探して読んだこの本。読みながら「ああ、文と文をつなぐ"接続"に気を付けるだけじゃなく、自分と読む人の間をつなぐ"接続"もつくらなきゃダメなんだな」なんてことに思い至りました。
読み手の側に立って書く、これ自体はよく出てくる言葉ですが、漠然としていてどう実践すればよいのか分かりません。その実践ヒントをこの本の二章以降が教えてくれました。
書き手である自分の知っていることを読み手と同期する手腕。この本の本筋はそこに。
印象に残ったのは、カメラワークを意識せよとの教えです。導入部では遠景で周辺環境も含め共有し、中盤の面白い場面は近景にクローズアップ。エンディングはまた遠景で未来を想像させる終わり方にする。
ものを書くとき、自分では知っていることであるために遠景を書くのが面倒だったり、無意識だったりでよく飛ばしている気がします。そこがダメなところの一つなんだろうなぁ。
他にも、うまく読み手と共有するためのテクニックは満載なのですが、ここではこのあたりで。受け売りだらけになっちゃいますし。

そして、書き手と読み手の接続が十分でないと伝わらないんだなぁと気づいたとき。コミュニケーションで感じていた疑問にも解らしきものが見えてきました。
「言葉は何を言ったかより誰が言ったかで受け入れられ方が変わる(≒あの人に言われたことは素直に受け入れられない)」のふしぎ。
特にポッと出てきた人の言葉が受け入れられがたいのは、背景や考えたこと、今までの経験の共有がまだ不十分であるためなんでしょうね。それゆえに同じものを見ていないだろうという気持ちがあるからなのでしょう。面倒でも背景や道筋、正解の道も不正解の道も共有しながら進めていかなければコミュニケーションはうまくいかない、と。ああ、こう書いていると「日本人めんどくせぃ」って気分にもなってきました。日本人だけの話かは分かりませんけど。


余談
この著者の方と、たとえ話の着目点センスには"接点"を感じなかったようです (笑 
読者の側に立つのではなく、座ってこそ読者が理解できるとか...
論理展開を主張ー理由ー事実とつなげていこう!という手法をマトリョーシカと表現したり...
そうなの?


20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)

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こう書いていても「接続」がキーワードだと思ったことに、話の飛躍なく導けているか不安です。どうしても自分の得た結論を知ってもらいたい!と気持ちが急いてしまうので。